漠然としてなおかつ遺書のようなもの

俺が死んだら見てほしい

平和に生きたいけど無理無理

嫁から「私が何か言うたびに体調崩して大量服薬するぐらいならはっきり言ってほしい」と言われた。以前も言われたし相当不満であるみたい。

逆の立場なら俺もそう言うと思う。信頼されてないんじゃないかって気になるだろう。

 

 

言われた瞬間の生の反論は、鮮度が高ければ高いほど熱量が多くまとまってなくて不必要に相手を傷つける。言わないの信頼してないからじゃなくてケンカをしたくないからだ。

でもそれを言語化するのがすごい難しい。経験則からこう思っているけど「ケンカになるという決めつけが信頼してない証じゃないか」といわれれば反論のしようもない。

 

 

俺のなかでは感情はとてもとても不安定なもので、自分のなかで生じた瞬間ですら外郭の定まっていないぼんやりとしたイメージでしかない。それを言葉にしてなんとか形容しようとした瞬間に一個の形が与えられて外界に表現される。

でも本当に伝えたいのは与えた形の外側の部分、例えば共通認識だと思っていたり自分の中だけの原体験であったり言語化するのが難しい部分こそ、本当は伝わってほしかったりする。

それは例えば口論の最中に投げる言葉では決して表現できない…できたとしても偶然に近いものだと思っている。

 

ドラマや漫画でも「ケンカをしてこそ成熟した人間関係」みたいに扱われているけど本当はそうじゃないというのが俺の持論。

でも無関心なんかじゃなく熱いヒューマンドラマが大好きで、好きなものに対するアクティブさがあって、弱い人に対して受容しようと懸命に頑張る嫁が好きだ。

 

 

合わないところは懸命に擦り合わせていくからその時は熱のこもった反論じゃなくて優しい指摘で直していけるような関係でいようよ。俺も大丈夫な間は頑張るからさ。