漠然としてなおかつ遺書のようなもの

俺が死んだら見てほしい

また久しぶりにここに書く

うまくいってるはずの人生もすぐに踏み外す。ライフバランスは簡単に崩れる。

 

ここには遺書のつもりで心情を書いていた。死にたい気持ちはずっとある。酩酊を繰り返しなんとか生きている。

本当に「なんとか生きている」なのか?俺より辛い人は世界中にたくさんいて、俺より苦しい生活をしているだろう。でもこの生きづらさは?

 

妻をものすごく怒らせた。妊婦が酩酊を繰り返す夫に接するのはさぞ嫌な気分だろう。「当て付けか?」とも聞かれた。俺の起死念慮は当て付けなんだろうか。その場では言いよどんでしまった。生活においては正しさなんかどうでもよくて穏やかさが一番大事だから。

 

この文章が遺書として機能するならその時には俺はもういないということだからはっきり言えるが、もちろん当て付けで、SOSで、叫びのつもりでODしている。難病もってて適応障害発達障害で不眠で好きでもない仕事をして毎日を維持している。俺の辛さは俺だけしかわからない。こんな悪意に満ちた言葉、絶対に言えないけど。

 

生きる事から降りたいのは彼女もそうなんだろう。向こうの死にたい気持ちを吐露されて、話し合いも解決しないままそれぞれの床についた。人はそれぞれの地獄を生きている。出産育児は大きな負担なのはもちろん理解している。共感はできていないけど。

 

 

俺らはきっと結婚して子供を持てるほどにはお互いに成熟していない。色々な経験をしてはいるが家庭を持つために絶対に必要な何かをどちらも手にしてはいないのだろう。だから苦しい。本当に本当に教えてもらいたい。まっとうに生きていくのには一体何が必要なのだろう。幸せのロールモデルか?絶対に肯定してくれる他者か?それとも脳の器質的ななにかなのか?

 

機械になりたい。感情のない機械ならもっとうまくロールプレイができるだろう。人生という演劇は幕が降りるまでずっと自分じゃなきゃいけない。息が苦しい。

 

 

自我はなくても欲はある。欲をコントロールできていたらこうはならなかったのか。

 

妻よ、娘よ。そしてこれから産まれるだろう息子よ。本当にごめん。俺はいい夫にもいい父にもなれない。弱く浅ましい俗物だ。人間の仮面を被っているにすぎない。

自傷が家族を傷つけることが明言化された今、死ぬのは先延ばしだ。最悪なこというけど病で死ぬのが俺だったら良かったのに。